2009/04/30

クリスピー・クリーム


その昔、アメリカで食べた時は「美味い!」と思ったドーナツ。
店頭でドーナツロボがグルグルとドーナツを作っている様を子供たちが群がって見ている。
お店で売っているグッズもデザインが可愛い。
アメリカではドーナツも人気だけど、コーヒーもウリにしている。
ショッピングモールのカートでも売っている。
これをライセンスして日本で展開したら売れるかも!と思って、オファーを出してみたら予想以上にフィーが高くて断念した。
あれから数年して日本で始まって、思った通り行列の店になったけど、それほど美味くないのは何でだろう?
なんつーか、甘過ぎる。歯が痛くなるほど甘い。
たぶんミスドの方が美味い。

どこでおかしくなったのだろうか?
残念だ。

ところであの店舗の作りなんだけど、行列しなくなったら
イートインするスペースは有るのだろうか?

2009/04/29

エアサイドの本


以前にも日記に書いたロンドンのクリエイティブ・チームのAIRSIDE。
彼等が結成10周年を記念して、これまでのクリエイティブワークを一冊の本にして出版した。
中身は英語と日本語で書かれている。
とても素晴らしい内容だ。
これからデザイナーを目指す人にも、現在デザインの仕事をしている人にとっても参考になる本だ。
装丁も綺麗で、本のタイトルすら書かれていない。
日本の出版社とも日本での出版について交渉をしていたけれど、この仕様とか諸々で意見が折り合わず、結局のところ日本で入手するには輸入書籍扱いになってしまった。
ちょっと高いし、重たい本だけどオススメです。

2009/04/13

親父へ



今日が、あの世での親父の誕生日ですね。

この世での77年間、ご苦労様でした。
そしてありがとうございました。

親父が居たから、いまここに僕が居ます。

77年間の人生、どうでしたか?
そんな簡単に聞いちゃいけないのかもしれないけど、
こういう話はしたことが無かったかもしれないですね。

このまえ、実家の写真を整理していたら、
親父の若かった頃の写真が何枚か出てきました。
恐らく僕が生まれる前の写真です。

写真の裏には「戦場に架ける橋にて」とメモがしてありました。
その後に漢字が何文字かで何か書いてあったのですが、
字が汚すぎて読めませんでした。
でも、未来の自分に向けてのメッセージのようなものだった気がします。

その時に思った人生を全う出来たのですか?
それとも違う人生になったのですか?
または、そんな事すら忘れてしまうような人生だったのですか?

もっと元気なうちに聞いておけば良かった。

昨日、病院の301号室で会ったのが最期になってしまいましたね。
あれから僅かの時間で逝ってしまうなんて思っていませんでした。

親父は話す事も出来なかったけれど、
僕をちゃんと見ていたし、会話が出来たような気がしています。

二十歳の頃、親父に会えなくなる日が来るなんて、思った事もありませんでした。
三十になった頃、少しだけそんな事を考えるようになりました。
四十を過ぎて、親父は病気になり、覚悟が出来るようになりました。

先週、親父の見舞いに行った帰り道に、頭の中にある親父との記憶を手繰り寄せてみました。
僕は小さい頃から親父と離れて暮していた時期が多かったせいか、
断片的にしか思い出がありません。

殆ど楽しかった時の思い出しか出てきません。
けれど、一度だけ親父と大喧嘩した時の記憶が出てきました。
なんであんなに親父に対して僕が怒ったのかは思い出せないけれど、
あの後で物凄く後悔した事だけ覚えています。

あの時も謝ったと思うけど、もう一度あらためて、
ごめんなさい。

いま僕もこの年齢になって、親父の苦労や苦悩が少しだけ理解できるようになってきました。

親父が病気になり、そして逝ってしまってから、いろんな事を考えます。

もうすぐ新しい命も産まれます。
昨日も言ったけど、たぶん女の子です。
元気な赤ちゃんを見せて、抱っこしてあげて欲しかったのに、
死んじまうんだもんな。

2009/04/07

親父とのことを思い出す・1

二十歳になる少し前、
親父が僕に、初めてのスーツを作ってくれた。
青山ツインタワーにあるテーラーだった。
親父の行きつけの店らしい。
僕はそれまでそんな店には行った事もなく、ちゃんとしたスーツすら着た事もなかった。
だが自分専用の服を仕立ててもらう。という事に興奮した僕は、前の日から色んな雑誌やレコードジャケット等を見ながらイメージを膨らませていた。

当日、僕は親父と一緒に青山に行き、そのテーラーに行ってみると大変な数の生地や柄が反物の状態で並んでいて、目移りするわ迷ってしまうわで、まったく選ぶどころの騒ぎでは無かった。
親父がお店の人に、初めてのスーツを作るんだと説明してくれて、僕と職人さんとで話をしながら、膨大な生地の中から少しずつ選択範囲が絞られてきた。
いろんな生地を肩から乗せて鏡の前で合わせて見る。
横から親父がチンピラみたいだとか、チンドン屋みたいだとか茶々を入れる。
もちろん僕はそんな生地を選んでいるつもりは無い。
だんだん面倒臭くなってきた。
スーツを作るだけで、自分で決めなければならない事が、こんなにあるのか!
そして一度選んだら取り返しがつかない。
そう思うと真剣にならざるを得ない。

散々迷った挙げ句に、
僕は少し光沢のあるベージュの生地と、薄いブルーのストライプ生地を選んだ。
どちらにするか悩んでいると親父はニタニタ笑いながら「両方作れ」と言った。
「いや、悪いからいいよ」と遠慮して見せたが、内心「しめた!」と、心躍っていた。
調子に乗った僕は職人さんとデザインについてあれこれ話を進め、全体的に細身のスタイルで、ジャケットは2つボタンでVゾーンが広め、パンツはフラットなノータックで仕立ててもらう事にした。
大体のイメージを伝えると、職人さんは僕の身体を採寸し「お父さんと違って大きいね」と言った。
親父は筋肉隆々なのだが小柄で、裸になると車に弾かれた蛙みたいな体型をしている。

次は仮縫いが出来たら連絡するので、一週間後ぐらいにもう一度来て。
と言われ、店を出た。
帰り道に親父に「ありがとう」と言うと、親父は照れ臭そうに「出来上がってからでいいよ」と言った。

一週間後、今度は一人でテーラーに行き、仮縫いされたスーツに袖を通してみた。
なんとも言えない感動があった。
胸まわりが少し窮屈に感じたのと、袖が少し短い気がしたので職人さんに伝えた。
また、ボタンホールのステッチだとか、ボタンの色だとか、また細かいやりとりがあって、次は仕立て上がるのが一週間から十日後だと言われ、ワクワクしながら家に帰った。

何日か過ぎて、親父のところに出来上がったという連絡があったと言われ、その週末に一緒にテーラーに行った。

初めてのスーツは、身体にピッタリで、鏡に映った自分がいつもより少しイイ男に見えた。
仕上がったスーツのイメージは、Bobby BrownのDon't be Cruelのレコードジャケットを思い出して欲しい。
全世界で1000万枚以上売り上げたアルバムだ。
そう、あんなスーツが欲しかったのだ。

親父は「なかなか良いじゃない」と、またニタニタ笑っていた。
ブルーの生地も同じ形で仕立ててもらったのだが、生地が違うので着心地も少し違っていた。
へぇそんなものなんだ?と思った。

スーツを受け取り、帰りに原宿の「あずま」という鉄板焼きの店に連れていってもらった。
この店は会社の接待とかで、たまに来る店なんだと。
下戸の親父はビールを2つ注文し、一緒に飲んだ。
僕もビールは嫌いだったのだが、一緒に飲んだ。
料理が始められ、
目の前で作られる料理と、料理人の見事な手捌きに関心しながら大きな鉄板をずっと見ていた。
この店のコース料理に出てくる「ホタテのウニソース」という一品があるのだが、この世のモノとは思えない美味さだった。

少し酔っぱらった親父は、シェフに「息子なんですよ」と2回も3回も言っていた。
適当なタイミングで僕は親父に「ありがとう」と言った。
親父は僕に「けっこう似合ってたぞ」とニタニタしながら言った。

ちょこちょこ出て来る料理を食べながら少しだけ親父と話をした。
「おまえ、これからどうすんだ?」と、
「音楽で食っていきたいと思っている」と、
「ふーん、なんでもいいから好きなことやれよ」と、
「うんわかった、好きなことだから頑張るよ」と、
「俺は分からんけど、好きなことならやってみな」と、
僕は再び「ありがとう」と言った。
まだ音楽で食って行く自信も無かった頃だった。

親父がお膳立てしてくれた、スーツを作るというイベントで、いろんな事を学んだ。
原宿の「あずま」という店には、今でも通っている。
いまでも当時と同じコース料理を出している。
僕にとってはかけがえのない思い出の店だ。