2009/05/24

東順永の水餃子


新宿3丁目の中華料理店「東順永」の水餃子。
開業したての頃は、5丁目にあった。
僕は開業したばかりの事から通っている。
ここの水餃子は東京で一番美味い。
店主の劉さんとは18年位の付き合いになるのだろか。

最近は、たまにしか食べに行けないけど、行った時は冷凍で土産用に30〜40個ほど持ち帰る。
お土産用の餃子は、ビニール袋に詰め込まれ、新聞紙に包んでくれる。
家の冷蔵庫に保存しておけば、いつでも食べれる。
で、無くなって暫くしたら再び食べに行く。
で、また持ち帰る。

ここの餃子は、タレは要らない。
そのまま食べるか、軽く塩をつまんで食べるのがベスト。

AC Cobra


1964年製
バカ丸出しスーパーカー、コブラのノベルティだったビアマグ。
10年前にオークションで5個セットを手に入れた。

3年前位に復刻車が出るという噂があったが、その後どうなったのだろう?
って考えるまでもなく、世界金融恐慌で、そんな夢のプロジェクトも暗礁に乗り上げてしまったのだろうか?


この他にも幾つかアメリカを象徴するような名車達の復刻プロジェクトが囁かれていたが、
チャレンジャーは辛うじて発売になったようだ。

http://www.bubu.co.jp/lineup/challenger/

エコだ何だと騒がれていますが、こんな車もアリだと思う。
本気でエコを考えるのであれば、みんな自転車か公共交通機関にでも乗れば良い。
ところで、ハイブリッドカーは本当にエコなのか?
雑誌で興味深い記事を見つけた。
日本の旧車と最新ハイブリッドカーでは、どちらがエコか?

軍配は、燃費だけで言えば、諸々規制以前の日本の名車達の方が圧倒的に上。
ハイブリッドと言えども1500ccもあるし、製造行程の問題とかリサイクルを考えれば一概には言えないかもしれないけれど、感慨深い結果だ。

しかし、日本を代表するエコカーは、カッコ悪い。
あんなもの乗りたくない。
車は便利な移動手段なのは間違いないが、もうひとつ重要な側面として、カルチャーだった筈だし、ステイタスだった。
トヨタの昔のCMだって「いつかはクラウン」だったじゃないか。
「いつかはプリウス」とは誰も思わない。

結局のところ、エコだ何だと騒ぎ始めて、世界中がケチ臭い思考になり始めてから、世界経済が全体的におかしな傾向なっていったような気がする。

いつ頃だったか、アフリカだか何処かのオバさんが、どこで覚えたんだか「日本のモッタイナイは素晴らしい言葉だ」とか言い出した。
モッタイナイ活動で、あのオバさんをアフリカから飛行機に乗せて講演とかに呼んだりする方がよっぽど勿体ないし、MOTTAINAIとプリントされた商品をわざわざ作って売ったりしているバカな企業を見ると虫酸が走る。

2009/05/23

録画ランキング

テレビの視聴率調査というのがあるけれど、最近では録画視聴率というのもあるそうだ。
その録画視聴率なるものの価値というか根拠なのだが、なんでも視聴者は「本当に興味のあるものや見たい番組は録画する」という考え方らしい。
確かにそういう部分もある。
自分もリアルタイムに番組を見れる機会は少ないので、よほどの番組はビデオ録画している。
番組の絶対視聴数という意味では、この録画視聴率というのも反映させると、よりリアルな数字になるのかもしれない。

この根拠をもとに、現在放送中の某ドラマが、ビデオリサーチ社の放送視聴率では史上最低の視聴率と言われているが、録画視聴率では高視聴率をキープ!というリリースを出した。
タレント事務所とかテレビ局関係者が出したリリースだとすれば、信じ難い記事だ。
録画で見るという事は、CMをスキップして視聴するというスタイルが一般的。
テレビ番組は企業から広告費をもらって作るもの。
スキップされてしまうのでは広告主にとっては何のメリットも無い。

広告主のテレビ離れというのは、こういう関係者の意識に起因しているのではないだろうか?
テレビ局は番組を自慢して売りたいのであれば、自分の金で作って、視聴者から金を貰うビジネスモデルに変えるべきだし、
タレント側も広告主からギャラを貰っている事を意識すれば、こんなリリースは出さない筈だ。

最近のテレビが何かおかしいのは、そんな理由かもしれない。


※録画視聴率と、放送視聴率の数字がイコールにならない理由としては、
放送視聴率でNHKの視聴率が高いのは、年寄りはデジタルビデオデッキでHDD録画などしないからだ。

2009/05/11

ときわ荘


と言っても、あの有名なトキワ荘ではなくて、西新宿を歩いていた時にたまたま見つけた、ただのボロいアパートです。
人が住んでるんだか廃墟なんだか、いまひとつ判断し辛い佇まいでしたが、昭和な良い感じでした。
変な外人とかが喜んで住みそうなアパートですが、僕は絶対に住みたくありません。

2009/05/09

天使と悪魔


某映画会社からご招待を頂き、天使と悪魔のジャパンプレミアに行って来た。
ダン・ブラウンの小説は、ダヴィンチ・コードが面白かったので全部読んだ。
この天使と悪魔も、小説で読んだ時はかなり面白かった。
確か、シンガポールに行く飛行機の中で読み始め、滞在中のホテルのベッドで読み耽り、帰りの飛行機の中で読み終えた。
で、映画の話。
前作と同様に前評判では「この映画は内容が難しいし、濃いから小説を読んでから観た方が面白い」。
なんて言われてますが、僕の感想を言わせてもらうと、小説を読んでから観るとガッカリします。
本の方が10倍面白いのです。
やっぱり2時間そこそこで、あの内容を映像化するのは難しいですね。
でも超大作であることには違いなく、映像美は凄いし、ラストシーンの宗教的シーンも感動します。
この映画こそ、DVDとかブルーレイでディレクターズ・カットみたいなパッケージが出れば欲しいです。
そしたら3時間でも4時間でも観ていられそう。
映画よりも、24のようなテレビドラマシリーズの方が向いている作品だと思います。

2009/05/08

Wiiの間


Wiiをお持ちの皆さん、テレビで宣伝している「Wiiの間」ってヤツ、ダウンロードしました?
僕はさっきインストールしてみたのですが、これ凄く面白いですよ。
さすが任天堂って感じ。
動画配信の演出をこんな感じに料理して出してきたのね。
広告も直球でありながら嫌みが無く、
ディズニーランドとか万博のパビリオン・スポンサーのような見せ方。
番組も安心して見れるようなものばかりで、意外にも面白い。
オススメ番組の見せ方も、擬人化したコンシェルジュに言われてしまうと見てみようかな?って気にさせる。
BeeTVのような携帯放送局よりも、可能性を感じてしまった。
テレビはお茶の間の一番良い場所を占領している存在だから、絶対に無くならないとは思っていたけど、
既存の放送局は無くなっても本当に困らない時代がすぐそこまで来ている気がした。

たぶん「Wiiの間」ってのはそういう意味なんだと思う。
Wiiってスゲエ。

2009/05/03

米茄子のグラタン


米茄子ってのは、なんで米茄子なんだろう?
デカイから米国人にちなんでいるのか?
気になるから調べてみよう。
ははあ、なるほど、
「丸茄子の一種で、まんまるな特大の茄子。中国からアメリカに持ち込まれた品種がアメリカで交配され定着したもの」。
という事だそうです。
和食屋なんかでよく「米茄子のなんとか」みたいなのが有りますね、でも日本とは全然関係無いんですね。
むしろ病原菌みたいな国と農薬万歳の国で共同開発されたバイオ兵器みたいなものだったんですね。
とは言え美味しいのでグラタンにしてみました。

米茄子を半分に切って中身をスプーンとかでくり抜きます。
(上下で半分に切って、ヘタの方は皮を剥いて適当な大きさに切ります)
くり抜いた茄子は食べやすい大きさにカットして、パプリカ/玉葱/キノコ/バジルなどと一緒に軽く炒めます。
味付けは軽く塩のみです。
そこにホワイトソースを加え、くり抜いた米茄子を器にして盛り込み、最後にチーズを乗せてオーブンに入れて15分程度待ちます。
チーズに少し焦げ目が付いたら完成です。
茄子の器ごと全部食べて下さい。

チャーシューを作る


それぞれ「何か」を持ち寄る主旨の花見があったので自家製チャーシューを持参する事にした。
なのでAEONで米国産豚肉ブロックを4本買ってきた。
圧力鍋に、水1リットル/北陸の醤油(少し甘い出汁醤油)200cc/砂糖大さじ二杯/塩小さじ一杯/白だし大さじ二杯を入れる。
別の鍋で煮切っておいた日本酒とみりん200cc(50:50)を加え、適当な感じで豚肉を投入し、すりおろし生姜とニンニク2欠片を入れ、圧力蓋を閉めて約30分煮込む。
これだけで激ウマチャーシューが完成する。
煮上がったチャーシューをオーブンに入れて表面を焦がしたり、グリルパンで焼き目をつけても美味しい。
煮汁は少量を別の小鍋に移して煮詰め、チャーシューのツメとして使っても美味しい。

また、この煮汁に半熟卵を入れて冷蔵庫で半日も置いておけば、ラーメン屋の美味しい味付け玉子が完成する。
さらに重宝するのは、この煮汁にS&Bの赤缶(カレー粉)と、キツネ色になるまで炒めた玉葱みじん切り(1個ぶん)を加えると、美味しいオリジナル風味のカレーが出来上がる。
写真のカレーは、さらにホールトマトとオクラを加えたもの。

メシが何杯でも食えるカレーの出来上がり。
少しミルクを加え、カレーうどんにしても美味しい。

自家製なめたけの和風パスタ


奥さんが冷蔵庫の整理で、余っていたキノコを使って「なめたけ」を作った。
なめたけなんて瓶詰めのしか食べた事なかったけど、これが妙に美味かったのでパスタを作る事にした。

レシピ(二人分)
材料:まぐろのフレーク缶(昔からあるオレンジ色の少し甘いヤツ)半分
万能ネギみじん切り:適量
大根おろし
みりん:小さじ一杯
醤油:小さじ一杯
白ワイン:一振り
オリーブオイル:大さじ二杯
塩:少々
胡椒:少々
乾燥パスタ(11):食べたいだけ

フライパンを中火で加熱しオリーブオイルを入れ、まぐろ→調味料を入れ炒める。
オイル分が残る程度に火が通ったら、白ワインを入れアルコールを飛ばす。
万能ネギを投入し、火を止め、具材に茹で上がったパスタをよく絡めてお皿に盛りつける。
フライパンの底に具材が残るので、それをパスタの上に飾り更に大根おろしを乗せる。
てっぺんに自家製なめたけを盛りつけて完成。
(なめたけは買ってくるか、作り方はクックパッドでも見て)
見事に美味いパスタの出来上がり。

吉祥寺のステーキ・サトウ


中学一年生から二十歳頃まで住んでいた武蔵野地区。
武蔵野一番の繁華街と云えば吉祥寺。
僕の感性や味覚は、この地で育まれたと言っても過言では無い。
今は年に一度か二度ぐらいしか行く事は無くなってしまったけれど、行けばなんとなくホッとする。
昨日も三鷹の江ぐちにラーメンを食べに行って、吉祥寺をブラブラして、夜はサトウのステーキを食べてきた。
サトウのステーキには少しだけ思い出がある。
吉祥寺の楽器屋とかパルコのギャラリーでアルバイトをしていた時代、バイト代が支給された日はこのサトウで松定食を食べていた。
ものすごく急で歩き難い階段を登ると、10坪は無い程度の狭い店内に、多過ぎるほどの店員と、肉を食いたくてウズウズしている客達で所狭しと賑わっている。
サトウのメニューは、一番安い「牛オイル焼き定食」に始まり、「梅定食」「竹定食」「松定食」とグレードアップしていく。
確か当時は「松定食」は2800円位だったような気がするのだが、昨日食べたら3650円だった。
さらにこの上に「シェフのおまかせ松坂牛定食」というのもあるのだが、これは頼まなくていい。
松坂牛とかを食べるのであれば、わざわざこの店まで来て食べなくても、もっと美味い店もある。
昔は焼き上がったステーキをもやしと一緒にホットプレートの上に乗せて、テーブルまで運んできたのだが、今は写真のように皿に盛りつけられているようだ。
あのホットプレートな感じが、運ばれて来た時の蒸気と匂いでメシが一杯食えるほどの演出だったのに残念だ。
でも相変わらずリーズナブルだ。
そこらのホテルの鉄板焼屋のン万円するコースよりも、よっぽど美味いし満足感がある。
コースの内容は、
ドリンク(オレンジジュース/ウーロン茶/なぜか白ワイン)からチョイス。
サラダ(小さい)
ごはん(おかわりフリー)
みそ汁
香の物
もやし炒めと、ちょっとした野菜
ステーキ
となっており、ステーキのタレは二種類ついてくる。
吉祥寺に行って、肉が食べたくなったら是非ここで松坂牛じゃない「松定食」を。
ダイヤ街のサトウ精肉店(いつのまにやら行列の出来るコロッケ屋になってた)の2Fです。

41才の誕生日


気がつけば早いもので、つい先日に41才の誕生日を迎えた。
41才と云うとバカボンパパの年齢なのだが、当時の41才のイメージとはあんな感じだったのだろうか?
写真(こう見えてバースデーケーキ)は、この10年苦楽を共にしてきた仲間達からのプレゼント。
よく出来ている。
こんな見た目だけど、意外に美味しい。
僕は喜びを感情表現するのが苦手である。
この時も凄く嬉しかったのだが、どう表現して良いのか分からなかった。
仲間達がこの日記を読む事は無いだろうけど、この場を借りて改めて「ありがとう」。

本厄に突入したので、近々どこかに厄祓いに行かないと。
もうこれ以上、負のイベントは勘弁して欲しい。

2009/04/30

クリスピー・クリーム


その昔、アメリカで食べた時は「美味い!」と思ったドーナツ。
店頭でドーナツロボがグルグルとドーナツを作っている様を子供たちが群がって見ている。
お店で売っているグッズもデザインが可愛い。
アメリカではドーナツも人気だけど、コーヒーもウリにしている。
ショッピングモールのカートでも売っている。
これをライセンスして日本で展開したら売れるかも!と思って、オファーを出してみたら予想以上にフィーが高くて断念した。
あれから数年して日本で始まって、思った通り行列の店になったけど、それほど美味くないのは何でだろう?
なんつーか、甘過ぎる。歯が痛くなるほど甘い。
たぶんミスドの方が美味い。

どこでおかしくなったのだろうか?
残念だ。

ところであの店舗の作りなんだけど、行列しなくなったら
イートインするスペースは有るのだろうか?

2009/04/29

エアサイドの本


以前にも日記に書いたロンドンのクリエイティブ・チームのAIRSIDE。
彼等が結成10周年を記念して、これまでのクリエイティブワークを一冊の本にして出版した。
中身は英語と日本語で書かれている。
とても素晴らしい内容だ。
これからデザイナーを目指す人にも、現在デザインの仕事をしている人にとっても参考になる本だ。
装丁も綺麗で、本のタイトルすら書かれていない。
日本の出版社とも日本での出版について交渉をしていたけれど、この仕様とか諸々で意見が折り合わず、結局のところ日本で入手するには輸入書籍扱いになってしまった。
ちょっと高いし、重たい本だけどオススメです。

2009/04/13

親父へ



今日が、あの世での親父の誕生日ですね。

この世での77年間、ご苦労様でした。
そしてありがとうございました。

親父が居たから、いまここに僕が居ます。

77年間の人生、どうでしたか?
そんな簡単に聞いちゃいけないのかもしれないけど、
こういう話はしたことが無かったかもしれないですね。

このまえ、実家の写真を整理していたら、
親父の若かった頃の写真が何枚か出てきました。
恐らく僕が生まれる前の写真です。

写真の裏には「戦場に架ける橋にて」とメモがしてありました。
その後に漢字が何文字かで何か書いてあったのですが、
字が汚すぎて読めませんでした。
でも、未来の自分に向けてのメッセージのようなものだった気がします。

その時に思った人生を全う出来たのですか?
それとも違う人生になったのですか?
または、そんな事すら忘れてしまうような人生だったのですか?

もっと元気なうちに聞いておけば良かった。

昨日、病院の301号室で会ったのが最期になってしまいましたね。
あれから僅かの時間で逝ってしまうなんて思っていませんでした。

親父は話す事も出来なかったけれど、
僕をちゃんと見ていたし、会話が出来たような気がしています。

二十歳の頃、親父に会えなくなる日が来るなんて、思った事もありませんでした。
三十になった頃、少しだけそんな事を考えるようになりました。
四十を過ぎて、親父は病気になり、覚悟が出来るようになりました。

先週、親父の見舞いに行った帰り道に、頭の中にある親父との記憶を手繰り寄せてみました。
僕は小さい頃から親父と離れて暮していた時期が多かったせいか、
断片的にしか思い出がありません。

殆ど楽しかった時の思い出しか出てきません。
けれど、一度だけ親父と大喧嘩した時の記憶が出てきました。
なんであんなに親父に対して僕が怒ったのかは思い出せないけれど、
あの後で物凄く後悔した事だけ覚えています。

あの時も謝ったと思うけど、もう一度あらためて、
ごめんなさい。

いま僕もこの年齢になって、親父の苦労や苦悩が少しだけ理解できるようになってきました。

親父が病気になり、そして逝ってしまってから、いろんな事を考えます。

もうすぐ新しい命も産まれます。
昨日も言ったけど、たぶん女の子です。
元気な赤ちゃんを見せて、抱っこしてあげて欲しかったのに、
死んじまうんだもんな。

2009/04/07

親父とのことを思い出す・1

二十歳になる少し前、
親父が僕に、初めてのスーツを作ってくれた。
青山ツインタワーにあるテーラーだった。
親父の行きつけの店らしい。
僕はそれまでそんな店には行った事もなく、ちゃんとしたスーツすら着た事もなかった。
だが自分専用の服を仕立ててもらう。という事に興奮した僕は、前の日から色んな雑誌やレコードジャケット等を見ながらイメージを膨らませていた。

当日、僕は親父と一緒に青山に行き、そのテーラーに行ってみると大変な数の生地や柄が反物の状態で並んでいて、目移りするわ迷ってしまうわで、まったく選ぶどころの騒ぎでは無かった。
親父がお店の人に、初めてのスーツを作るんだと説明してくれて、僕と職人さんとで話をしながら、膨大な生地の中から少しずつ選択範囲が絞られてきた。
いろんな生地を肩から乗せて鏡の前で合わせて見る。
横から親父がチンピラみたいだとか、チンドン屋みたいだとか茶々を入れる。
もちろん僕はそんな生地を選んでいるつもりは無い。
だんだん面倒臭くなってきた。
スーツを作るだけで、自分で決めなければならない事が、こんなにあるのか!
そして一度選んだら取り返しがつかない。
そう思うと真剣にならざるを得ない。

散々迷った挙げ句に、
僕は少し光沢のあるベージュの生地と、薄いブルーのストライプ生地を選んだ。
どちらにするか悩んでいると親父はニタニタ笑いながら「両方作れ」と言った。
「いや、悪いからいいよ」と遠慮して見せたが、内心「しめた!」と、心躍っていた。
調子に乗った僕は職人さんとデザインについてあれこれ話を進め、全体的に細身のスタイルで、ジャケットは2つボタンでVゾーンが広め、パンツはフラットなノータックで仕立ててもらう事にした。
大体のイメージを伝えると、職人さんは僕の身体を採寸し「お父さんと違って大きいね」と言った。
親父は筋肉隆々なのだが小柄で、裸になると車に弾かれた蛙みたいな体型をしている。

次は仮縫いが出来たら連絡するので、一週間後ぐらいにもう一度来て。
と言われ、店を出た。
帰り道に親父に「ありがとう」と言うと、親父は照れ臭そうに「出来上がってからでいいよ」と言った。

一週間後、今度は一人でテーラーに行き、仮縫いされたスーツに袖を通してみた。
なんとも言えない感動があった。
胸まわりが少し窮屈に感じたのと、袖が少し短い気がしたので職人さんに伝えた。
また、ボタンホールのステッチだとか、ボタンの色だとか、また細かいやりとりがあって、次は仕立て上がるのが一週間から十日後だと言われ、ワクワクしながら家に帰った。

何日か過ぎて、親父のところに出来上がったという連絡があったと言われ、その週末に一緒にテーラーに行った。

初めてのスーツは、身体にピッタリで、鏡に映った自分がいつもより少しイイ男に見えた。
仕上がったスーツのイメージは、Bobby BrownのDon't be Cruelのレコードジャケットを思い出して欲しい。
全世界で1000万枚以上売り上げたアルバムだ。
そう、あんなスーツが欲しかったのだ。

親父は「なかなか良いじゃない」と、またニタニタ笑っていた。
ブルーの生地も同じ形で仕立ててもらったのだが、生地が違うので着心地も少し違っていた。
へぇそんなものなんだ?と思った。

スーツを受け取り、帰りに原宿の「あずま」という鉄板焼きの店に連れていってもらった。
この店は会社の接待とかで、たまに来る店なんだと。
下戸の親父はビールを2つ注文し、一緒に飲んだ。
僕もビールは嫌いだったのだが、一緒に飲んだ。
料理が始められ、
目の前で作られる料理と、料理人の見事な手捌きに関心しながら大きな鉄板をずっと見ていた。
この店のコース料理に出てくる「ホタテのウニソース」という一品があるのだが、この世のモノとは思えない美味さだった。

少し酔っぱらった親父は、シェフに「息子なんですよ」と2回も3回も言っていた。
適当なタイミングで僕は親父に「ありがとう」と言った。
親父は僕に「けっこう似合ってたぞ」とニタニタしながら言った。

ちょこちょこ出て来る料理を食べながら少しだけ親父と話をした。
「おまえ、これからどうすんだ?」と、
「音楽で食っていきたいと思っている」と、
「ふーん、なんでもいいから好きなことやれよ」と、
「うんわかった、好きなことだから頑張るよ」と、
「俺は分からんけど、好きなことならやってみな」と、
僕は再び「ありがとう」と言った。
まだ音楽で食って行く自信も無かった頃だった。

親父がお膳立てしてくれた、スーツを作るというイベントで、いろんな事を学んだ。
原宿の「あずま」という店には、今でも通っている。
いまでも当時と同じコース料理を出している。
僕にとってはかけがえのない思い出の店だ。

2009/03/28

エレクトリック・ベース


まず、ドイツ製ワーウィック社のサム・ベース。
小振りなデザインでありながら結構重い。ブビンガという木材で作られており、音質は硬質でサスティーンが長く、ボディの大きさからは考えられない程のしっかりとした濃密なサウンドを奏でる。
これは割と初期のモデルで、現在売られているモノとは仕様が若干違うし、音色も豊かだ。
つまり自分が持っているヤツが一番良い状態だと言いたいだけである。
販売された歴代全モデルを弾き比べた事があるわけじゃないので本当のところは分からないけれど、それで良いじゃないか。

で、次に、

アメリカ製、フォデラ社の4弦ベース
楽器としてだけでなく、工芸的価値のあるエレクトリック・ベースの最高峰。
年間製造台数も極めて少量であり、使用されている木材も希少価値の高いものが贅沢に使われている。木目の美しさは写真の通り。
今や、世界の銘木の殆どは高級楽器を作るファクトリーの倉庫に眠っているらしく、高級家具メーカーもわざわざ買い付けに来るのだそうだ。
フォデラ社の楽器を駆使する有名ベーシストには、Marcus Miller / Victor Wooten / Anthony Jackson / Richard Bona 等が居る。
特徴としては、プレイした際の反応の早さ、エッジの効いた独特のサウンド、そして何よりも、構えた時のバランスの良さであろう。
5弦モデル以上の多弦ベースが有名な同社であるが、僕は4弦ベースが好きだ。
ギターより弦が2本少ないから覚えやすいと思ってベースを始めたのに、いまさら5弦とか6弦とか、難しい事を練習する気になれない。

要するに、カッコ良く弾けりゃいいんだよ、楽器なんてのは。

DoCoMo P901


これを作った当時、パナソニックのデザイナーの方から、ドコモの携帯電話Pシリーズで着せ替え可能なモデルを投入する、何か面白いジャケットを作って欲しいという相談を受けた。
その時にインスピレーションで、本物のデニムで携帯を作ったらカッコいいかも?と思い、デザインを描き始めた。

デニムに関しては老舗アメカジブランドの社長兼デザイナーに相談してみたところ「おもしろいじゃない、やるよ俺」と男らしく引き受けてくれた。
何故デニムで作りたかったのというと、携帯電話って毎日持ち歩くモノだし、所有する楽しさを提案してみたかったからだ。
デニムは経年変化を楽しむ素材だし、それをデジタル機器に持ち込んでみたら今までに無い、所有するヨコロビみたいな感覚が生れるかな?と考えた。

さらに、中身も外側に合わせてカスタマイズ出来たら、もっと統一感が出て楽しいと思ったので、待受けアニメをオリジナルで作り、着信メロディもオリジナルを5曲用意し、待受け画像はイメージ写真やグラフィックに画像合成エンジンを使って、シリアルナンバーとオーナーの名前などを入れた、オリジナルのモノがダウンロード出来るような仕掛けにした。
これで世界でただ一つの携帯電話という演出を施した。
普段はデジタルな仕事が多い中、リアルなモノ作りと平行してデジタルな仕掛けまで考える面白い仕事だった。

2009/03/23

PDA


米Palm Computing社が2002年に発売したPDA。
Palm Vx
パーム・パイロットは最初に発売されたモデルから歴代殆どのモデルを使ってきたけれど、このモデルだけは別格に素晴らしいデザインだったので、今は使ってはいないのだが捨てずに置いてある。

パームパイロットの中でもPalm Vxだけは、ルイ・ヴィトンやグッチ等からも立派なケースが発売された。
最近ではPDAなんて言葉もあまり使われなくなった。
そもそもこのPDAというジャンルの商品、「アメリカのビジネスマンは皆これを使ってる」という本当だかウソだか分からない情報と共に黒船に乗ってやってきた。
「アメリカのビジネスマン」と聞くと「デキる男」というイメージがあり、これを使えば俺も今日からデキる奴!と男心を擽るのかもしれない。
ブラックベリーもしかりだろう。
PDAのコンセプトは要するに身の回りの情報をデジタル化して持ち歩こうという主旨であり、これまでも数々のメーカーがトライ&エラーを繰り返してきた。
アップル社でもパーム以前にNewtonという佐川急便の人が持っていそうなバカでかいPDAを発売していたし、日本にもザウルスという(今でも有るか)電子手帳が存在するし、インド製のシンピューターなんてのも有った。
パームOSのライセンスを受けて、ソニーでもクリエというPDAを発売していた。
恐らくパーム機史上、最も数多くのモデルを発売したのがソニーであろう。
クリエは既に製造中止になってしまったのだが、最期の方のモデルはゴチャゴチャと色んな機能が付き過ぎて何だかよく分からない機械になってしまっていた。

僕は歴史上PDAの中ではGeneral Magic社が開発した機械が一番面白かったと思っている。
まだその頃はPDAなんて言い方はしていなかった。
彼らはPIC(Personal Intelligent Communicator)と呼んでいた。
当時としては先進的GUIを搭載していたOSであるMagic Cap / Telescriptは、エージェントを駆使し、アイコン化された自分の部屋と仮想都市を行き来しながら各種オンラインサービスを受けられるという画期的なアイディアだった。
そのMagic CapプラットフォームにGraffitiという手書き認識ソフトウェアを提供していたのが、設立されたばかりのPalm Computing社なのである。
両社とも、アップル社をスピンアウトしたメンバーで設立された会社だった。
その後、General Magic社は衰退し、今では企業としてほぼ消滅してしまったのだが、彼らが実現しようとしていたコトは残像としてこの業界に残り続け、満を持して登場したのがAppleのiPhoneだ。

iPhoneが発売されてから、スケジュール管理やメモ等はiPhoneを使うようになった。
そして、歴代PDAの中では最も活用している。
バッテリーの持ち時間が短い事以外は、ほぼ満足。
夏頃に新機種も出るようだし、楽しみ。
日本製の携帯も、それはそれで良いところもあるけれど、こっちのほうが気持ち良い。
世界中のくだらないアプリも沢山あるし。

iPhoneは日本国内のケータイよりも、インターネット的だから楽しいんだと思う。
あんなキャリアに規制されたコンテンツなんかで楽しめるものか!

2009/03/21

精密カッターと精密ピンセット



その名の通り、精密な事をしたくなった時に使う道具。
東急ハンズで売っている。

たまに、苛々するほど精密で面倒な事をしたくなる時がある。
昔はルーペと自作の極細筆で米に絵を描いた事もある。
10粒くらい描いて屋根に向かって投げ捨てた。
捨ててから何か勘違いしている自分に気付いた。

あれは二十歳の頃。
無駄な能力と体力を持て余していた春だった。

2009/03/20

クリーブランドのウェッジ


クリーブランド、57度のウェッジ。
最近はゴルフをやってないけど、何年か前までは仲間としょっちゅう行っていた。
一時はクラブにも随分と凝って、いろんなモデルを試した。
結果、何でやっても変わらないという事が判明して、大変勉強になった。
しかし、このウェッジだけは別格。
何というか、自分に合っていた。
面白いようにスピンが掛かるのだ。
バックスピンでホールに寄って入った時は鼻血が出た。
何故いまビデオを撮っていなかったのか!
何故テレビ局は来ていないのか!
と、今でも後悔する。
またそのうちゴルフを再開したいような気がするけど、波乗りもちゃんとやってみたい気がする。
波乗りには3回ほど行ったことがあるのだが、防波堤でサンダルの鼻緒がすっぽ抜けてこけて後頭部を強打し、サーフィンは危険だと悟ってからは行ってない。

2009/03/19

ステッドラー



仕事柄、メモを取ったり、絵を描いたりすることが多い日常。
なので常に信頼出来るペンを数本持ち歩いている。
シャープペン、ボールペン、万年筆、マーカー等。
このステッドラーのシャープペンは普段メモ書きをする際や、アイディアを思いついた時、手帳に文字や簡単なイラストを描いたりする際に使っている。
あちこちに同じものを何本も持っている。
僕は気に入ったモノ、同じモノをいくつも買う癖があるようだ。
芯は4Bを愛用している。
このペンが気に入った理由は、シャープペンらしくシャープなデザインだから、そして鉛筆デッサンをしていた時代からステッドラーが好きだったから。
そもそも僕の兄貴が鉛筆オタクで、僕が中学生の頃、兄貴は色んなメーカーの鉛筆を買込んできては、あーでもないこうでもないと蘊蓄を語っていた。
兄貴が絵を描いているところは見たことが無いので、彼は文字を書くのに拘っていたのだろう。
しかし、その兄貴、字はもの凄く下手くそだった。

2009/03/16

COPIC sketch



.Tooで出している色彩豊かな染料マーカー。
http://www.too.com/copic/
発色も奇麗だし、物凄い色のバリエーションもさることながら、このシリーズの目玉は自分で色が作れるという事。
310種のインクの中から好きな色を自分で調合出来る、まるで絵の具のようなペン。
自分の色が持てるペンというだけで、ちょっと嬉しい。
筆先(ニブというらしい)も2種用意されていて、ブラシと通常のモノ。
このニブも幾つかバリエーションがあり、好みのモノに交換出来る。
つまり、全身カスタマイズ可能なペン。
絵を描くのが苦手な人は、このペンを使って、まず塗り絵でもやってみれば良い。
だんだん楽しくなって、一から描きたくなってくると思う。
絵は上手に描く必要なんて無い。
目の前にあるモノの特徴を捉えたり、記憶の中にあるものを思い出して描けば良いのだ。
そっくりに描くんだったらデジカメで撮った方が良い。
誰が描いた絵であっても、ミミズが這ったような筆跡でも、
それは立派なオリジナルなのだ。

そして、子供の居る方は、我が子が描いた絵は全てとっておいた方が良い。
僕はある美術館から、子供の頃に描いた作品を収蔵(驚くほど高額で!)させて欲しいと言われ、親に「何でもいいから送ってくれ」と連絡をしたら、「そんなもん全部捨てた」と言われショックを受けた事がある。

2009/03/08

マペット


先日ご披露したキャラクターのマペットが完成した。
ほぼイメージ通りに仕上がり、大笑い。
片方の耳の質感が違うのは、
むかし大怪我をした際に、他の動物の死骸から耳を移植したというブラックジャック的な設定。

2009/02/27

プロジェクト「じゃまいか」始動


このブログをご覧になっていた数少ない皆様。
ごぶさたしております。
2008年の日記をすっ飛ばして、突然ですが。

昨年末頃に友人の放送作家と、冗談で言い始めたプロジェクトが本当に始まりました。
4月末頃からモバイル配信が開始されます。
これはオフィシャル・キャラクター。
何が始まるのかは、追ってご報告。

2009/02/06

我が子へ



2009年1月20日、アメリカの歴史では初めての黒人大統領が誕生しました。
バラク・オバマという人です。
そのオバマ大統領の就任演説が立派な内容だったので(日本語訳)を記録しておきます。
キミが大きくなる頃にも、ネットとか何かで検索出来るかもしれないけれど念のため。

ついでに、その頃には埋もれてしまいそうなオバマ情報として、この日記の画像に使っているオバマ大統領のグラフィックは、シェパード・フェアリーというストリート・アートの作家が描いたものです。
もとは落書きだった作品が、オバマ大統領公認で販売される迄に至りました。
こだわり続けた結果が、このアーティストの成功に結びついたのでしょう。

以下演説内容です。



 国民の皆さん

 私は今日、厳粛な思いで任務を前にし、皆さんの信頼に感謝し、我々の祖先が払った犠牲を心にとめて、この場に立っている。ブッシュ大統領が我が国に果たした貢献と、政権移行期間に示してくれた寛容さと協力に感謝する。

 これまで、44人の米国人が大統領としての宣誓を行った。その言葉は、繁栄の波と平和の安定の時期に語られることもあったが、暗雲がたれ込め、嵐が吹きすさぶただ中で行われた宣誓もあった。こうした試練の時に米国が前進を続けられたのは、政府高官の技量と展望だけでなく、「我ら(合衆国の)人民」が、先達の理想と、建国の文書に忠実でありつづけたためでもある。

 それが我々の伝統だった。我々の世代にとっても、そうありつづける。

 だれもが知る通り、我々は重大な危機にある。わが国は(イラクやアフガニスタンで)戦争状況にあり、敵は憎悪と暴力のネットワークを持っている。経済状況も悪く、その原因は一部の人々の貪欲(どんよく)さと無責任さにあるものの、我々は困難な選択を避け、次世代への準備にも失敗している。

 多くの人々が家を職を失い、企業も倒産した。健康保険制度もカネがかかりすぎ、多くの学校(制度)も失敗した。毎日のように、我々のエネルギーの使い方が敵を強め、地球を危険に陥れている証拠も挙がっている。

 これがデータや統計が示した危機だ。全米で自信が失われ、アメリカの没落は必然で、次の世代は多くを望めない、という恐れがまん延している。

 今日、私は我々が直面している試練は現実のものだ、と言いたい。試練は数多く、そして深刻なものだ。短期間では解決できない。だが知るべきなのはアメリカはいつか克服するということだ。

 この日に我々が集ったのは、恐れではなく、希望を選んだためで、争いの代わりに団結を選んだからだ。

 この日、我々は実行されない約束やささいな不満を終わらせ、これまで使い果たされ、そして政治を長いこと混乱させてきた独断などをやめる。それを宣言するためにやって来た。

 我々はいまだ若い国家だ。だが、聖書の言葉を借りれば「幼子らしいこと」をやめる時が来た。我々が、不朽の精神を再確認する時がきた。より良い歴史を選ぶことを再確認し、世代から世代へと受け継がれた高貴な理想と貴重な贈り物を引き継ぐ時が来た。それはすべての人々は平等、自由で最大限の幸福を追求する価値があるという、神の約束である。

我が国の偉大さを再確認する時、我々は偉大さが決して与えられたものでないことを理解する。自分で手に入れなければならないのだ。我々のこれまでの旅は、近道では決してなかったし、安易に流れるものでもなかった。それは心の弱い、仕事より遊びを好み、富と名声からの喜びのみを求める人々の道でもなかった。むしろ、リスクを選ぶ人、実行の人、創造の人の道だ。恵まれた人の場合もあるが、多くはその仕事については知られず、長く困難な道のりを歩み、我々を繁栄と自由へと運んでくれた人々だ。

 我々のために、彼らは、ないに等しい荷物をまとめ、海を渡って新しい生活を探した人々だ。

 我々のために、彼らは額に汗して働き、西部に住み着き、鞭(むち)打ちに耐え、硬い土地を耕してきた人々だ。

 我々のために、彼らは(米独立戦争の戦場の)コンコードや(南北戦争の)ゲティズバーグ、(第二次世界大戦の)ノルマンディーや(ベトナムの)ケサンで戦い、死んだ人々だ。

 歴史の中で繰り返しこうした男女がもがき、犠牲を払い、我々がよりよい生活を送れるように苦労してきた。彼らは、米国が我々の個人的な希望の集大成よりも大きい存在だと思っていた。生まれや富、党派の違いより偉大だと思っていたのだ。

 この旅を今日、我々は続けている。我々は今でも地上で最も繁栄し強力な国だ。我々の労働者は今回の危機が始まった時と同様、生産性は高い。発明心に富み、商品やサービスは先週、先月、昨年と同様に求められている。

 我々の能力は落ちていない。だが、過去に固執し、狭い利益しか守らず、面倒な決定は後回しにする時代は終わった。今日からは、我々は立ち上がり、ほこりを払い、アメリカ再建の仕事に取りかからねばならない。

 どこを見回してもすべき仕事がある。経済状況は、大胆で迅速な行動を求めている。我々は新しい職場の創造だけでなく、成長のため新しい基盤を作らねばならない。

 我々は道路や橋、電線やデジタル通信網をつくり、我々の商業を支え、我々の結びつきを強めなければならない。我々は科学を本来あるべき場所に引き戻し、技術を活用し医療の質を引き上げると共にコストを下げる。

 太陽、風や土壌を使って我々の自動車の燃料とし、工場を動かす。我々の学校や単科大、大学を新たな時代の要請にあわせるようにする。これらすべてが我々には可能だ。これらすべてを我々は実行するのだ。

 我々の志の大きさに疑問をはさむ人もいる。我々のシステムでは大きすぎる計画は達成できないという人々だ。彼らは覚えていないのだ。彼らはすでにこの国が成し遂げたことを忘れているのだ。想像力が共通の目的に出会った時、必要が勇気と出会った時、自由な男女に達成できることを忘れているのだ。

 皮肉屋が理解できないのは、彼らの下で大地が動いたということだ。我々を余りに長期間、消耗させた使い古しの政治論議はもはや適用されない。今日、我々が問うのは、政府が大きすぎるか小さすぎるかではなく、機能しているかどうかだ。家庭が人並みの収入を得られるよう仕事を見つけ、威厳をもって引退できるよう助けているかどうかだ。

 答えが「イエス」の施策は継続する。「ノー」の施策は廃止する。公金を預かる我々は、説明責任を果たさなければならない。適切に支出し、悪い習慣を改め、誰からも見えるように業務を行う。それによって初めて、国民と政府の間の重要な信頼を回復できる。

 市場が正しいか悪いかも、我々にとっての問題ではない。富を生み出し、自由を拡大する市場の力は比肩するものがない。だが、今回の金融危機は、注意深い監視がなされなければ、市場は制御不能になり、豊かな者のみを優遇する国は長く繁栄することはできないことを我々に気付かせた。

 我々の経済の成功は国内総生産の規模だけでなく、繁栄が享受される範囲や、望む人すべてに機会を広げる能力にかかってきた。慈善としてではなく、公共の利益に通じる最も確実な道としてだ。

 我々の防衛一般に関しては、我々の理想と安全のどちらかを選ぶという間違った考えを拒絶する。建国の父らは、想像もできないような危険に直面しながら、法の支配と人権を確約する憲章を起草し、それは何世代もの血で拡大されてきた。これらの理想はいまだに世界を照らし、我々は方便のためにこれらをあきらめることはない。

 だから、我々を今見ている他の民族や政府に対して言いたい。巨大な都市から、私の父が生まれたような最も小さな村まで、米国は平和で尊厳ある将来を求めるすべての国々とすべての男女、そして子どもの友人であり、もう一度、指導力を発揮する用意があることを知ってほしい、と。

 先人がミサイルや戦車を使うのみならず、信念と確固たる同盟をもってファシズムや共産主義に勇敢に立ち向かったことを思い出そう。先人は軍事力だけが我々を守るのではないことや、またそれを好き勝手に使えないことを知っていた。

 代わりに、彼らは慎重にそれを使うことで力が増し、安全は目的の正しさや、他国の手本となる振る舞い、謙虚さや自制心から発することを知っていた。

 我々はこの遺産を引き継ぐ。これらの原理に再び導かれ、解決により一層の努力が求められる新しい脅威に対抗できる。我々は責任を持ってイラクから撤退し始め、イラク人に国を任せる。そしてアフガンでの平和を取り戻す。古くからの友人とかつての敵と共に、核の脅威を減らすために絶えず努力し、さらに地球の温暖化とも戦う。

 我々の生き方について言い訳はしないし、それを断固として守る。無実な人々を殺したり、脅迫で自己の目的の実現を図る者に対し、告げる。我々の意思の方が強く、我々の意思を曲げることはできない。我々の方が長く生き、そして打ち負かす。

 我々の多様な出自は強みであり、弱みではない。キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、そして無宗教者の国だ。地球上の津々浦々から来たあらゆる言語と文化で形作られている。内戦(南北戦争)や人種差別という苦い経験もしたが、その暗い時代をへて、我々はより強くなり、きずなも深くなった。かつての憎しみはいずれ消え、我々を分け隔てた壁はいずれ消える。世界が小さくなるにつれ、我々が共通に持つ人類愛が出現する。そしてアメリカは平和の時代をもたらす役割を果たさねばならない。

 イスラム世界との関係では、互いの利益と互いの敬意を基本として共に歩む方法を探す。対立をあおったり、国内の社会問題が生じた責任を西側世界に押しつけようとする指導者たちよ、何を壊すかでなく、何を築けるかで、国民に評価されることを知るべきだ。

 腐敗、策略、口封じで権力にしがみつく指導者たちは、大きな歴史の過ちを犯していることを知るべきだ。しかし、その握りこぶしをほどくならば、我々も手を差し伸べる。

 貧しい国々の人々には、我々が一緒に汗を流すことを約束する。農地が豊かになり、きれいな水が流れるようにし、空腹を満たすとともに、飢えた心も満たす。そして我々のように比較的豊かな国々は、国外での苦しみに無関心でいたり、影響を気にとめずに、地球の資源を浪費はできない。世界は既に変革しており、我々もそれに合わせて変わらなければならない。

 我々は進む道を熟慮しながらも、今まさに、遠く離れた砂漠や山々で警戒に当たる勇敢なアメリカ人たちへ謙虚に、そして感謝の念を持ち、思いをはせる。彼らは今日、我々に教訓を与えてくれる。アーリントン国立墓地に眠る英雄たちと同じように。彼らが自由の守護者だからだけでなく、彼らは奉仕の精神を体現し、自分たち自身よりも偉大なものが存在し、それに意味を見いだす人たちだからこそ、たたえる。そして、この歴史的な瞬間に、まさにこの精神を我々がみな共有しなければいけない。

 政府の能力や義務は、究極的には米国民の信念と決意が決定する。それは、堤防が決壊した時に見知らぬ人をも招き入れる親切や、友人が仕事を失うことになるよりも、自分の労働時間を削ってでも仕事を分け合おうという労働者たちの無私無欲のおかげで、最も暗い時を切り抜けることができる。煙に満ちた階段を駆け上がる消防士の勇気や、子どもを育てる親たちの意志が、最終的に我々の運命を決定付ける。

 我々の試練は新しいのかもしれない。それに立ち向かうための道具も、新しいかもしれない。我々が成功するかどうかは、労働と誠実さ、勇気、フェアプレー、忍耐、好奇心、忠誠心や愛国心にかかっている。古くから言われていることだ。だが、真実だ。それは歴史を進歩させた静かな力だった。今求められているのは、こうした真理への回帰だ。責任を果たすべき新たな時代だ。我々米国人一人ひとりが、自分自身や国家や世界に義務を負っていることを認識し、こうした義務を嫌々ではなく、喜んで受け入れることだ。私たちにとって、困難な仕事に全力で立ち向かうことほど、自らの性格を定義し、精神をみたすものはない。

 これが市民であることの代償と約束だ。これが私たちの自信の源泉だ。神が未知の運命を自らの手で形作るよう、我々に求めたものだ。

 なぜ男性も女性も子供たちも、どのような人種、宗教の人々も、こうして就任式に集まることができるのか。なぜ約60年前なら地元のレストランで給仕されなかった可能性のある男の息子が、こうして皆さんの前で宣誓式に臨むことができるのか。これこそが、我々の自由、我々の信条の意味なのだ。

 我々が誰なのか、我々がどれほど遠くまで旅してきたか。今日という日を、それを記憶に刻む日にしよう。

 アメリカ建国の年、最も寒かった時、愛国者たちは氷で覆われた川岸で、たき火のそばに寄り添い合った。首都は見捨てられ、敵は進軍し、雪は血で染まった。独立革命が本当に実現するか不確かな時、建国の父たちは、この言葉をきちんと読むよう求めたのだ。

 「未来の世界に語られるようにしよう。厳寒の中で希望と美徳だけが生き残った時、共通の脅威にさらされた国や地方が前に進み、それに立ち向かうと」。

 アメリカよ。共通の脅威に直面した非常に困難なこの冬に、これら永遠の言葉を忘れないでいよう。希望と美徳をもって、この氷のような冷たい流れに勇敢に立ち向かおう。そしてどんな嵐が来ようとも耐えよう。

 将来、我々の子孫に言われるようにしよう。試練にさらされた時に我々は旅を終わらせることを拒み、たじろぐことも後戻りすることもしなかったということを。我々は地平線と注がれる神の愛を見つめ、自由という偉大な贈り物を前に送り出し、それを次世代に無事に届けたのだ、ということを。

2009/02/03

もうすぐ会える我が子へ


まだ名前も決まっていないし、男の子か女の子かも分からないキミの為に、今日から少しずつ手紙を書きます。
キミがこの世に生を受けた2008年は、変な年でした。
変な年というより、今まで自分が世の中を動かしているんだと勘違いしていたバカな人達が、いろんな事を誤摩化しながら積み上げて来た虚構の世界が耐えきれなくなり、一気に吹き飛んだのです。
おかげで世界経済は100年に一度の危機とか言われています。
それが本当かどうか分かりません。
でも今迄には無かったような事が起きてるのは確かです。
大きな会社が急に倒産したり(たぶんその会社にしてみれば急な出来事では無いのだと思うけど、僕らはニュースで見る限りは急に見える)たくさんの人達が職を失ったりしています。
たぶんこの動きは今後もしばらく続いていくでしょう。
巷ではアメリカのリーマンショックと呼ばれる、証券会社の倒産から経済危機が始まったと言われていますけど、本当はそうじゃなないんじゃないか?と思います。

パパは経済学者とか専門家じゃないから、よく分からないけれども、もっと別の原因があるような気がします。

ともかく、キミが大人になる頃がどんな世界になっているのか想像も出来ないけれど、やりたい事があれば何でもやってみると良い。
そして最高の人生を見つける事が出来れば、それが幸せなんだよ。