2006/04/23

あの頃のぼくの話6


■ロイクのルーとティー■

 二番目の高校に行くようになってから、少しだけ進路の事を考えるようになった。絵の世界も捨てきれないし、音楽業界も少し気になる。
どちらにせよ、高校の進路指導では納得のいく答えは無さそうだったので、とりあえず好きな事を好きなだけやろうと思った。
今迄とは違うエリアで遊ぶようになった僕は、福生のライブハウスやプールバーで遊び狂っていた。福生には横田基地があり、どこの店に行っても必ずと言っていいほど外人が居た。
今はどうだか知らないけど、当時福生のバーでは$が使えた。
カウンターで$紙幣を出してビールを飲んでいる外人達はえらくカッコ良く見えた。外人達にくっついて歩いている日本人の派手めの女性もたくさん居た。そのうちの一人と少しだけ話すようになった。
17才の夏の暑い日の事だった。
その女性と話をしていたら年齢は24才の帰国子女で、住んでいる場所はウチから割と近いマンションに一人暮らしなので、帰りは車(赤いサーファー仕様のファミリア)で送ってくれるという。「ラッキー!&大人の女!」と思った僕は眠くなるのを我慢して、何かを期待し、深い時間まで福生のバーで遊んでいた。
そろそろ帰るから車を取って来るというので店の外で待っていると、赤いファミリアが目の前にやってきた。ファミリアの座席にはTown&CountryのTシャツが着せてあった。
で、よく見ると彼女は運転をしていない。助手席に座っている。
運転席には「目と歯」しか見えない。
よく見ると黒人のおっさんがニタニタ笑いながら運転していた。
僕が後部座席に乗り込むと「I'm Lou ルーデス」と言いながら握手を求めてきた。とりあえず握手をしてニタニタ笑い返した。
送ってもらう車中で、そのルーとカタコトの日本語と英語で、通じてんだかどうなんだか分からない話を色々した。
なんでも普段はエアフォースのコンピューター技師をしていて、日本に来て1年半ぐらいだという。なんだかよく分からないけど仲良くなり、恐らくこの彼女と付き合っているみたいだし、彼女の事は忘れて、この黒人と友達になった。連絡先をもらい、この頃は携帯電話なんか無いので、基地の電話交換の番号と彼の部屋の内線番号みたいなのが書かれた紙だった。
僕の実家の電話番号も渡した。
はじめてこの番号に電話した時は、ものすごく緊張した。
だって交換の人は外人だし、英語が通じなくて他の部屋に繋がったらなんて言って謝ったらいいのか分からないし、繋がってもちゃんと会話出来るのかも自信がなかった。
でも何とかいいかげんな英語で話は通じ、また遊ぶ約束をした。
それからたまにルーと遊ぶようになり、他の仲間も紹介してもらったりして、僕は週末になると横田基地まで遊びに行き、ルーの家で触った事のないパソコンを使わせてもらったりした。
コモドール社のAMIGAという機種で、このパソコンでフライト・シミュレーターなんかをやらせてもらい、やたらと興奮した。
基地の中には当時日本にはなかったバーガーキングというハンバーガーショップがあった。
初めてなんとかワッパーというアホみたいな大きさのハンバーガーを食べた時は「俺は今、アメリカを食っている」。と本気で思った。
基地の中で音楽をやっている人達とも知り合いになり、僕も自分のベースを持ち込み、セッションをやらせてもらう機会があった。
この頃の僕は中央線沿線ではそこそこ腕のある高校生ベーシストとして有名になっており、演奏テクに関しては自信があった。
ふだんレコードのジャケットでしか見た事のない外人達に混ざって、果たして自分のプレイがどれほど通用するのかちょっとビビったけど、僕はその基地の中に居るどのベースプレイヤーよりも上手く、黒人ぽいプレイが出来た。
外人達は僕のプレイを見て、どうやって弾くのか俺にも教えてくれ!と盛り上がり、僕は有頂天というか天狗になった。
チョッパーベース(親指で弦をはじきながら弾く技法)は、ビデオも無い時代だったので、レコードを聞きながら、どうやってその音を出すの独自に考えたオリジナルの奏法だったので、ある黒人ベースプレイヤー(へたくそ)は高校生の僕に弟子入りをした。
あ、俺もしかしてプロになれんじゃね?と考え始めたのがこの頃だ。
そんなこんなで、基地のすぐ外にあった教会で日曜日にゴスペルをやるから、お前がベースを弾けと言われ、やらせてもらう事になった。
何十人かの黒人が、一斉に歌う。そんなのは見た事がない。
この時は緊張もしたけど、それより何より、その迫力に感動してしまった。
思えば貴重な体験だ。本当に楽しかった。
ずっとこの時間が続けば良いと思った。

半年ほどが過ぎて、ルーがアメリカに帰る事になった。
ルーと知り合うきっかけを作ってくれた女性は、ルーとはとっくに別れて他の黒人と付き合っていた。
彼女から別れ話をされた時、ルーは死ぬほど落ち込み、勢い余って彼女の住んでいたマンションの十階の部屋まで、外の配管をよじのぼってベランダから部屋に侵入して、警察に通報されたらしい。バカだ。
その初めて出来た外人の友達のルーが遠く離れたアメリカに帰るという出来事は、僕にはショッキングな出来事だった。

もう一人、僕がベースを教えていたティーという黒人が居た。
彼は奥さんも子供も居て、建設作業員として基地で働いていた。
彼は毎日いろんな建物を作って、基地の中のアメリカンサイズのアパートメントで、奥さんと二人の子供と一緒に幸せに暮らしていた。
基地の中にはあらゆる職種があって、マーケットで働いている人も居れば、電気屋さんも居るし、ボーリング場とかもあって、そこで働く人も居る。小さいアメリカがそのまんまそこに在るという感じ。道路も街並みも日本のそれとは全く違って、まるで映画のセットみたいに見えた。
たった3~4メートルの高さの有刺鉄線の向こうなのに違う国。
なんだか不思議だった。
ティーの家族とは本当に仲良くしてもらった。週末は一緒に基地内のマーケットに行って買い物をして、信じられないほど巨大な肉塊や、業務用洗剤みたいな大きさのコーラを買って来て、アパートのベランダでBBQをしたり、連休があると軍用機に乗せてもらい沖縄の嘉手納基地までバケーションに連れて行ってもらったりした。
ティーはルーとは違って真面目というか、大人しい男だった。
見た目はNBAの選手みたいにデカくて、身長も2メートル位あった。
外で遊んでいるとき彼は、いつも日焼けを気にしていたのだが、僕にはどこが日焼けしてんのかも分からないし、「俺、日焼けしてない?」って聞かれても何と答えていいのか分からなかった。
あれはジョークだったのか、それとも本気だったのか、今でもよく分からない。

彼に紹介してもらった、基地の外にいる外国人の友達も何人か居た。
一人は色男の黒人で、日本語も堪能。僕が「何年ぐらい日本に住んでるの?」と聞いたら、流暢な日本語で「まる十年」という返事が返ってきてビックリした。
もう一人は調子のいい性格の黒人で、エディという男。
エディは分倍河原のアパートで、一人暮らしをしていた。
このエディとはこの後、ずいぶんと長い付き合いをした。
エディは昼間はどこかの会社でコンピューター関係の仕事をして、夜はDJ FAST EDDIEという名前でクラブのDJをやっていた。
よくエディの家に泊まりに行って一緒に音楽を作ったりした。
彼の家にはタイプライターみたいな形をしたアップルⅡがあって、僕はこの時にアップルのパソコンを初めて触った。クリーム色っぽいパソコンと6色リンゴのマークがカッコ良かった。
エディの家でレコードを聴いたり、楽器をいじったりしてるうちに朝になって、それでも元気なエディは狭いキッチンに立ち、パッケージに黒人のおばさんが描かれているパンケーキミックスを水で溶いて適当に焼いたのと、カリカリに焼いたベーコンで朝メシを作ってくれたりした。
そのパンケーキミックスがメチャクチャ美味かったので、今でも紀伊国屋とかナショナルマーケットに行くと探しているけど、まだ見つからない。

思い出の味だ。

GIANT STEPS

吉田美奈子さんから素晴らしくカッコいいムービーが送られてきた。
コルトレーン+アート的なアニメーション。

http://michalevy.com/gs_download.html

ロードに時間が掛かるけど、一見の価値アリ。

2006/04/22

あの頃のぼくの話5

■ハイスクール・ライフ■

 どうでもいいような私立高校二年生の、春になりかけようとしている時に、僕は退学になった。
理由は自慢出来るような話でもないので書かないが、悪ふざけばかりしていたツケ、とでも言っておこう。
とりあえず高校は卒業しておきたかったので、すぐに都立高校の編入試験を受ける事にした。そもそも僕は芸大に行くつもりでいたので、高校に行きながら夜は美大予備校に通い、来る日も来る日もデッサンの勉強をしている勤勉学生だったのだ。
しかし、高校入試を二度も受ける事になった事と、アホみたいにデッサンを描き続ける毎日への疑問が重なり、なんだかどうでもよくなってしまった。
二度目に通う事になった都立高校は、まぁハッキリ言って最低の高校だった。同級生にヒゲを生やしてマークⅡに乗って登校してくるパンチパーマで二十三才の先輩は居るし、女子生徒は全員がスカートの何処かにカミソリでも仕込んでいそうな装いで近寄り難い。
ヤンキー共の他は、今で言うオタクみたいな連中と、体力バカみたいな連中で見事にグルーピングされていた。
とにかく、オバマが生徒会長だったら、すぐにでもChange!と言いたくなるような学校だったのだ。
 そんな学校でも、今思えば素晴らしい環境にあったと思う。
学校の裏は多摩川の上流にあたる美しい川が流れていて、川に生息する魚達は人間を怖がらず、裸足で川に入れば近寄って足を突いてくる。
駅から学校へ続く道には狸が出没し、畑を荒らしたりするらしい。
学校の向かいには変な定食屋があって、腹が減れば店の婆さんが何か食わしてくれる。
保健体育の先生は若くて美人で新米という、男子高校生の妄想を全て満たす絵に描いたような教師だった。

僕は通学する電車で、よく居眠りをした。
本来僕が降りるべき駅を降りそびれると、そこから先は単線になり、万が一終点まで行ってしまったら無人駅で次の電車が来るまでの小一時間、改札から追い出されてしまう。どんなに頑張って戻ったとしても、四時限目が始まる頃になってしまう。そんな時は潔くあきらめて、山奥の駅で蕎麦か饅頭でも食べて山を散策していた。
帰りの電車でもしょっちゅう居眠りをした。
日頃から悪ふざけばかりしていた僕は、一度でいいから網棚の上で寝てみたいという衝動に駆られた。
始発駅から乗車し実際に寝てみると、その狭さが意外と心地よい。
あまりの居心地の良さにいつの間にやら本気で寝てしまった。
ふと目が覚めると、電車は東京駅に着き折り返していた。
既に満員状態の車内の網棚で目覚めた僕は身動きも出来ず、乗客の冷たい視線をただ受け止め、寝たふりを続けるしかなかった。
降りる事が出来たのは、再び終点に到着した時だった。

というような高校時代だったのだが、そんな生活を続けるうちに、いつの間にか絵を描く情熱よりもバンド活動の方に気を取られるようになっていた。

2006/04/21

あの頃のぼくの話4


■江ぐちの話■

 少し、「江ぐち」の話しをしよう。
江ぐちは見ての通り「江」に平仮名の「ぐち」で表記するのが正しい。
三鷹駅からすぐの雑居ビルの地下にある「中華そば江ぐち」。
ミラクルなラーメン屋である。
ちなみにこの「江ぐち」は小説にもなっているし、泉昌之の漫画にも登場している。
この江ぐちであるが、僕は中学時代から食い続けている。
当時の江ぐちは、この雑居ビルではなく同じ場所にあった路面のボロ家で営業していた。
三鷹市の再開発プロジェクトがあり、三鷹駅前の一帯が立て替えられ「江ぐち」もビルのテナントとなったのだ。その再開発プロジェクトは立ち退く立ち退かない問題で、かなり揉めていたのを覚えている。
市の職員達が、どうしても立ち退きたくない雑貨屋の婆さんが泣くきながら喚くのを押さえつけ、作業員がユンボを使って無理矢理その家屋を壊していく様がテレビのニュースにもなったほどだった。

 そしてこの江ぐちのラーメンなのだが、美味いのか不味いのか、さっぱり分からない。特別美味くはないが、間違いなくここでしか食えない味。
美味いものが食いたいとか、そういうつもりで行っては駄目なのだ、この店は。
江ぐちの店内は、低めのカウンターのみで完全なコの字型のオープンキッチンである。要するに、作っているところが丸見えなのだ。
驚かされるのが、まずドンブリに元ダレを入れる。次に赤いキャップの食卓塩の瓶にどデカイ穴を開けたオヤジ手製(と思われる)容器から、
ドバー!っと勢いよく化学調味料が注入される。
これが江ぐち流、丸見えの隠し味なのだろう。
次に麺を茹でるのだが、江ぐちにはワンタンメンとか玉子そばというメニューもある。これらの具材が全てが同じ釜で茹でられるのだ。
つまり、江ぐちのオヤジはかなり適当に調理をこなしているので、頼んでもいないのにワンタンや玉子の切れ端のようなものが混入されたラーメンが出てくる。たまにワンタンが入っていると「お?ラッキー」となり、玉子の白身が固まった切れ端のようなものが入っていると不愉快になる。
という具合に、少し運だめしというか占いのような要素もある。
麺も他店では味わえないような珍妙な麺である。やけに色のついた歯応えのある麺。例えるなら蕎麦と中華麺の中間というか。
この店のフロントに立ち続け、ずっとラーメンを作り続けているオヤジさんが居るのだが、この人は「江口さん」ではない。では誰が「江口さん」なのか?謎は深まる。稀に裏口で箱に入れた麺を届けるオジさんを見かけるのだが、この人こそ影のオーナーである、という説もある。
スープに関しては、コメントするのもバカバカしい。なので控えたい。
しかし食ってしまう。
そして、なぜか行くたびに店は混んでいる。行列の出来る店と言っても過言では無い。その客の殆どがリピーターであろう。

僕は思う、江ぐちに来る客達は、何かしらの「思い出」を食べに来ているのだろう。
この江ぐちの中華そば、未だにどうしても食べたくなる一品なのであった。

話はちょっと脱線したけれど、それが中学時代の、ほんの少しの出来事だ。

2006/04/20

あの頃のぼくの話3

■楽器との出会い■

僕には年の離れた兄が二人居る。
すぐ上の兄貴はギターを弾いていた。
一番上の兄貴は今でもチェロを職業としている。
すぐ上の兄貴は確か僕が小学生の頃は「さだまさし」や「かぐや姫」を一生懸命に練習していた記憶があるのだが、ポール・サイモンあたりを聞くようになったあたりからテクニック指向へと変わって行ったのか、僕が中学生になる頃にはアール・クルーやジョージ・ベンソン等を聞いたり、ギターで練習したりしていた。
兄貴が家でいつもそんなのを聞いてるもんだから、僕もそっち系の音楽が好きになり、当時はなんだかよく分からないけれども、格好良く聞こえたものだった。

 そして中学一年生の終わりの頃だっただろうか、兄貴の勧めというか影響で、ベースという楽器に興味を持ち、貯めていたお年玉と小遣いを持って楽器屋にベースとベースアンプを買いに行った。足りない分は何故だか分からないけど兄貴が出してくれた。たぶん自分も弾いてみたかったんだと思う。
三鷹には三鷹楽器という由緒正しくテキトーな店員だらけの楽器屋もあり、そこの店員さんには楽器に関する薀蓄を色々と教えてもらった。
僕が店頭で選んだのはヤマハの赤いベースと、やけに大きなスピーカーがついたデカい音がするアンプだった。そのセットで毎日練習に勤しんだ。兄貴のレコードを聞きながら、それと同じように弾けるまで指から血が出ようが、晩飯の用意が出来ようが、聞いて弾いて聞いて弾いての繰り返しを続けた。今みたいにiPodとか便利な道具が無い時代だったので、レコードからラジカセに録音して、分からないフレーズがあれば巻き戻しボタンと再生ボタン同時に押しながらキュルキュル何度も聞いた。

 初めてコピーしたのはスタンリー・クラーク(元祖超絶テクのベーシスト)のスクール・デイズという曲だ。今にして思えば無謀、あまりにも無謀な挑戦だっと思う。それを練習しろと言った兄貴も凄い。スタンリー・クラークなんていう人は誰だか知らないし、外人だし、どうやって弾いてんのかも分からない。
カセットテープに録音した曲を何度も聞きながら音を一個ずつ拾うしかない。僕は音楽の成績も悪かったし、音符も読めない。
なので完全に耳コピだ。運指は想像で、恐らくこうじゃねーの?という軽い気持ちで練習を始めた。奏法も音感も独学でほぼ我流。
この頃のクセが、その後の人格形成がなされてしまった気がする。
間違った知識も多分に持っていただろうし、実際いいかげんな知識を持っていたと大人になってから気付いた事実も山のようにある。
でもそれが楽しかった。
新しい何かを身につけて、友達に自慢したり、真似してみたり、そしてまた新しい事を探すのが楽しくて仕方なかったのだ。

 家にあるレコードのフレーズが自分で弾けるようになると、次の課題が欲しくなる。三鷹の駅前に黎紅堂(れいこうどう)という貸レコード屋さんがあった。今となってはTSUTAYAとか色々あるけれど、この黎紅堂が貸レコードというビジネスモデルの発祥の店だったらしい。当時は気にもしていなかったけれど、僕の住んでいた街にこの店が存在したのは神様からの贈り物とでもいうか、実に有難い存在だった。
中学生だった僕は会員証なんて発行してもらえる筈もなく、最初は兄貴と一緒に行って兄貴の会員証で借りてもらっていた。そのうち店の人と顔見知りになり、自分の会員証を作ってもらえた。当時の貸レコードのシステムは厳格なもので、レコード盤に傷がついていないか確認をしてから借り、返す時に万が一盤面に傷がついていようものならば、買取をしなければならないというレギュレーションがあった。借りたレコードはオーディオテクニカのビロードみたいな生地がついて湾曲したレコードクリーナーで埃を取ってから、ターンテーブルの針を落とし、最初のブチっというノイズを確認してから、兄貴のナカミチのテープレコーダーのRec.ボタンを押し、ソニーのフェリクロームのカセットテープに録音していた。
それを自分のラジカセで何度も何度も聞くのだ。
ガキながら本気で音楽に取り組んでいた僕にとって、そのテープ達は天竺から授かった有難い教典のようなものだった。
黎紅堂の店長は、ガキが借りるには未だ早いようなジャズとかフュージョンのレコードばかり借りる僕に興味を持ったようで「なんでこんなのばかり聞いてんだ?」と話掛けてくるようになった。僕は「スタンリー・クラークみたなベーシストになりたいんだ」。と、いま考えれば生意気というか、笑わせんな!と言われてもおかしくない受け答えをしたのを覚えているが、店長は「だったら聞きたいレコードを仕入れてやる」。と、リクエストを受け付けてくれるようになった。僕は良い大人に恵まれた。
僕は次から次に遠慮無しにリクエストを出しまくった。
いつの間にかその店のライブラリはマニアックなレコードで一杯になっていた。

 最初の洋楽の知識は、兄貴と中学の担任教師から学んだ。
担任のジャンズ(身体がデカイのでそういうあだ名)先生はジャズ好きの爺さんで、コルトレーンやバード、チャーリー・パーカー等を昼の校内放送で流すようなシャレた教師だった。その先生がジャズを教えてくれたのだ。
僕がベースを演っていると言えば、チャールズ・ミンガスやロン・カーターのレコードを持って来て聞かせてくれた。
ジャンズ先生には授業で何を教わったのかは全く覚えていないけれど、それ以上に大事な、今の僕の基礎となるセンスやフィーリングという、授業では教えてもらえないような何かを教えてくれた。
ジャズを学んだ最初の一歩がこの頃。
今振り返ればえば、ジャズとの良い出会いだった。
音楽も美術も、とっ掛かりは良き師匠との出会いが大切なのだ。
僕が住んでいた武蔵野はジャズの街と言われている。
吉祥寺にはジャズBARやライブハウスが幾つもあり、週末の街角ではジャズバンドが演奏したりしていた。
同級生で仲の良かった山田の家は地元では名の知れたBARを経営しており、そのツテもあって、中坊では入れてもらえないようなジャズ喫茶にも入れてもらう事が出来た。
そう、確か店の名前はサムタイム。
店の中には巨大なJBLのスピーカー、パラゴンが設置されていた。
東小金井にはトミーボーイという安っぽいカフェがあり、木曜の夜はこの店に設置されたプロジェクター(当時では珍しい)をベースとした店長自慢のAVシステムで外タレのライブビデオを見ながら不味いミックスピラフを食べた。
いま思い出しても本当に不味いピラフだった。
武蔵境の駅前にはスタジオ・ロサンゼルスという練習スタジオ兼ライブハウス(ライブをやってる人は見た事が無い)が突如オープンし、開業当初から入り浸っていた。
店長と仲良くなったおかげでいつもタダで使わせてもらえた。
音楽の香りがなんだか漂う武蔵野の地で育ったおかげで、ミュージシャンの世界に憧れ、その世界に入る動機の一つとなったのは言うまでも無い。

2006/04/18

あの頃のぼくの話2

■映画を撮った話■

中学時代と言えば、忘れてはならないのが学園祭。
しかし、学園祭にバンド出演をしたとかの話では無い。
では何の話か?

 ある日、いつも一緒に遊んでいた友達と学園祭で映画を上映しようという話になり、写真屋の息子でサッカー部主将の明日太(あすた)と映画の企画を始めた。
まず最初に決めたのは、刑事モノであるという事。
たぶん刑事コロンボの影響だと思う。
主人公には「もさん(本名忘れた)」、脇役に柴プー(柴崎)を起用する。
タイトルは「乞食刑事もさん」。
そして次に設定とストーリーを作った。
その刑事は普段は乞食として生活をしているのだが、常人には無い恐るべき臭覚を持っており、難解な事件の時に駆り出される特捜デカである。犯人は柴プーで、犯行内容は下着ドロ。
そこから先は撮りながら考えようという、安易且ついいかげんで、いかにも中二の考えそうな最低の企画だった。
明日太の実家は写真屋さんだったのでカメラ好きの親父が持っていた8ミリで撮影することになった。
ヤツの家で現像も出来るし、編集機(カミソリで切ったりテープで貼ったりするヤツ)もある。
ロケ地は近所の通称「たぬき山」という雑木林。
撮影の裏方スタッフとして、ゴン(長谷川)とクワ(桑久保)にも声を掛けた。ゴンはレフ板と照明担当。
レフの正しい使い方なんて知らなかったのだが、とりあえずテレビとかで見ていた銀色の板を持って何かをしているアレをやってみたかったのだ。
確かアルミホイルみたいな銀紙で自作した。
クワの役目は主に雑用係。
監督と撮影は僕と明日太が交代でやった。
撮影初日、そこらのゴミ置き場で拾ったトレンチコートをもさんに着せ、雑木林の適当な場所にゴザを敷いて寝ているカットから始まった。
シロウトの僕と明日太が、シロウトの中学生俳優に演技指導をする。
「違うんだよ、乞食が朝起きるときの表情はもっと酸っぱい顔するんだ!」と、わけの分からない注文をつける。
それにキチンと応じるもさん。
柴プーは普段は目立たない存在。というより虐められていたので、ここぞとばかりにサムい程の怪演を観せた。
クワの役目は撮影中の交通規制。
たぬき山の林道を自転車で通る地元のおばさんや、下校中の生徒に「すんません!撮影中ですから!」と声を張り上げていた。
いま思えば近所迷惑な話だ。
撮影は必死に三日間ほど行い、無事に撮りあげた。
あのスタッフ全員のモチベーションはどこから来ていたのだろう?

しかし編集が面倒臭くなり(フィルムを切ったり貼ったりするのが)結局のところ学園祭には間に合わなかった。
あの時代にFinal Cut ProやiMovieがあれば、ちゃんと最後までやり遂げただろうに。その幻の処女作が明日太の実家に今でも在るという事を昨年知った。
その明日太、今では大変立派な陶芸家になっている。

2006/04/14

あの頃のぼくの話1


■My First Computer■
「ぴゅう太」をご存知だろうか?
それはTOMYから発売されていた日本語BASICの書ける16ビットのコンピューターだ。
パンフレットの、やけに真剣な子供の顔が怖かった。

これこそ僕が手にした初めてのコンピューターなのである。
キーボードは消しゴムみたなペコペコのヤツで、ディスプレイは家庭のテレビを使う。打ち込んだプログラムやドットで緻密に描いたグラフィックはカセットテープレコーダーでセーブ&ロードを行う。ピー・ガーと異音を奏でながらデータを音声に変換しながら記録するのだ。大昔のアナログモデムの接続音を思い出してもらえれば想像出来るかもしれない。
このデータは記録するにも読み込むにも相当な時間が掛かったが、一度も成功した試しがない。つまり、たとえ何時間もかけて一生懸命に作ったものであっても一期一会。それはまるで「砂曼荼羅」のようだ。
このぴゅう太で色々と作品を創った。
絵も描いたし、ゲームも創った。
今思えば、僕の初のCG作品は「ぴゅう太」で描いたのだ。
確か、ゴルゴ13の顔を描いた気がする。
初めて作ったゲームは、イヤらしい目をした偽ミッキーが登場する横スクロールのジャンプゲームだ。障害物とかそんなのは無い。
ただジャンプするだけなので面白くもなんともないシュールなゲーム。
それでも気分は時代の寵児、最先端だった。
ハイテクを使ってモノ作りをする楽しさはぴゅう太がきっかけだった事は間違い無い。
その後、親父が「会社で使っているパソコンがいらなくなったから持ってきてやる」。と言って持って帰ってきてくれたのだが、僕の知っているパソコンとはなんだか様子が違う
本体正面に漢字で「書院」と書いてあった。
親父はパソコンとワープロの区別がつかなかったのだろう。
親父よ、ありがとう。