2006/04/20

あの頃のぼくの話3

■楽器との出会い■

僕には年の離れた兄が二人居る。
すぐ上の兄貴はギターを弾いていた。
一番上の兄貴は今でもチェロを職業としている。
すぐ上の兄貴は確か僕が小学生の頃は「さだまさし」や「かぐや姫」を一生懸命に練習していた記憶があるのだが、ポール・サイモンあたりを聞くようになったあたりからテクニック指向へと変わって行ったのか、僕が中学生になる頃にはアール・クルーやジョージ・ベンソン等を聞いたり、ギターで練習したりしていた。
兄貴が家でいつもそんなのを聞いてるもんだから、僕もそっち系の音楽が好きになり、当時はなんだかよく分からないけれども、格好良く聞こえたものだった。

 そして中学一年生の終わりの頃だっただろうか、兄貴の勧めというか影響で、ベースという楽器に興味を持ち、貯めていたお年玉と小遣いを持って楽器屋にベースとベースアンプを買いに行った。足りない分は何故だか分からないけど兄貴が出してくれた。たぶん自分も弾いてみたかったんだと思う。
三鷹には三鷹楽器という由緒正しくテキトーな店員だらけの楽器屋もあり、そこの店員さんには楽器に関する薀蓄を色々と教えてもらった。
僕が店頭で選んだのはヤマハの赤いベースと、やけに大きなスピーカーがついたデカい音がするアンプだった。そのセットで毎日練習に勤しんだ。兄貴のレコードを聞きながら、それと同じように弾けるまで指から血が出ようが、晩飯の用意が出来ようが、聞いて弾いて聞いて弾いての繰り返しを続けた。今みたいにiPodとか便利な道具が無い時代だったので、レコードからラジカセに録音して、分からないフレーズがあれば巻き戻しボタンと再生ボタン同時に押しながらキュルキュル何度も聞いた。

 初めてコピーしたのはスタンリー・クラーク(元祖超絶テクのベーシスト)のスクール・デイズという曲だ。今にして思えば無謀、あまりにも無謀な挑戦だっと思う。それを練習しろと言った兄貴も凄い。スタンリー・クラークなんていう人は誰だか知らないし、外人だし、どうやって弾いてんのかも分からない。
カセットテープに録音した曲を何度も聞きながら音を一個ずつ拾うしかない。僕は音楽の成績も悪かったし、音符も読めない。
なので完全に耳コピだ。運指は想像で、恐らくこうじゃねーの?という軽い気持ちで練習を始めた。奏法も音感も独学でほぼ我流。
この頃のクセが、その後の人格形成がなされてしまった気がする。
間違った知識も多分に持っていただろうし、実際いいかげんな知識を持っていたと大人になってから気付いた事実も山のようにある。
でもそれが楽しかった。
新しい何かを身につけて、友達に自慢したり、真似してみたり、そしてまた新しい事を探すのが楽しくて仕方なかったのだ。

 家にあるレコードのフレーズが自分で弾けるようになると、次の課題が欲しくなる。三鷹の駅前に黎紅堂(れいこうどう)という貸レコード屋さんがあった。今となってはTSUTAYAとか色々あるけれど、この黎紅堂が貸レコードというビジネスモデルの発祥の店だったらしい。当時は気にもしていなかったけれど、僕の住んでいた街にこの店が存在したのは神様からの贈り物とでもいうか、実に有難い存在だった。
中学生だった僕は会員証なんて発行してもらえる筈もなく、最初は兄貴と一緒に行って兄貴の会員証で借りてもらっていた。そのうち店の人と顔見知りになり、自分の会員証を作ってもらえた。当時の貸レコードのシステムは厳格なもので、レコード盤に傷がついていないか確認をしてから借り、返す時に万が一盤面に傷がついていようものならば、買取をしなければならないというレギュレーションがあった。借りたレコードはオーディオテクニカのビロードみたいな生地がついて湾曲したレコードクリーナーで埃を取ってから、ターンテーブルの針を落とし、最初のブチっというノイズを確認してから、兄貴のナカミチのテープレコーダーのRec.ボタンを押し、ソニーのフェリクロームのカセットテープに録音していた。
それを自分のラジカセで何度も何度も聞くのだ。
ガキながら本気で音楽に取り組んでいた僕にとって、そのテープ達は天竺から授かった有難い教典のようなものだった。
黎紅堂の店長は、ガキが借りるには未だ早いようなジャズとかフュージョンのレコードばかり借りる僕に興味を持ったようで「なんでこんなのばかり聞いてんだ?」と話掛けてくるようになった。僕は「スタンリー・クラークみたなベーシストになりたいんだ」。と、いま考えれば生意気というか、笑わせんな!と言われてもおかしくない受け答えをしたのを覚えているが、店長は「だったら聞きたいレコードを仕入れてやる」。と、リクエストを受け付けてくれるようになった。僕は良い大人に恵まれた。
僕は次から次に遠慮無しにリクエストを出しまくった。
いつの間にかその店のライブラリはマニアックなレコードで一杯になっていた。

 最初の洋楽の知識は、兄貴と中学の担任教師から学んだ。
担任のジャンズ(身体がデカイのでそういうあだ名)先生はジャズ好きの爺さんで、コルトレーンやバード、チャーリー・パーカー等を昼の校内放送で流すようなシャレた教師だった。その先生がジャズを教えてくれたのだ。
僕がベースを演っていると言えば、チャールズ・ミンガスやロン・カーターのレコードを持って来て聞かせてくれた。
ジャンズ先生には授業で何を教わったのかは全く覚えていないけれど、それ以上に大事な、今の僕の基礎となるセンスやフィーリングという、授業では教えてもらえないような何かを教えてくれた。
ジャズを学んだ最初の一歩がこの頃。
今振り返ればえば、ジャズとの良い出会いだった。
音楽も美術も、とっ掛かりは良き師匠との出会いが大切なのだ。
僕が住んでいた武蔵野はジャズの街と言われている。
吉祥寺にはジャズBARやライブハウスが幾つもあり、週末の街角ではジャズバンドが演奏したりしていた。
同級生で仲の良かった山田の家は地元では名の知れたBARを経営しており、そのツテもあって、中坊では入れてもらえないようなジャズ喫茶にも入れてもらう事が出来た。
そう、確か店の名前はサムタイム。
店の中には巨大なJBLのスピーカー、パラゴンが設置されていた。
東小金井にはトミーボーイという安っぽいカフェがあり、木曜の夜はこの店に設置されたプロジェクター(当時では珍しい)をベースとした店長自慢のAVシステムで外タレのライブビデオを見ながら不味いミックスピラフを食べた。
いま思い出しても本当に不味いピラフだった。
武蔵境の駅前にはスタジオ・ロサンゼルスという練習スタジオ兼ライブハウス(ライブをやってる人は見た事が無い)が突如オープンし、開業当初から入り浸っていた。
店長と仲良くなったおかげでいつもタダで使わせてもらえた。
音楽の香りがなんだか漂う武蔵野の地で育ったおかげで、ミュージシャンの世界に憧れ、その世界に入る動機の一つとなったのは言うまでも無い。

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